歯の激痛になぜ麻酔が効かないのか?
歯の激痛になぜ麻酔が効かないのか?科学が解き明かした「Nav1.9」の正体
歯科治療において、誰もが恐れる「最悪のシナリオ」があります。それは、麻酔を打ったはずなのに、いざ歯を削り始めると飛び上がるような激痛が走る「局所麻酔不全」です。特に、根管治療(歯の神経の治療)が必要な「エンドドンティック・ペイシェント(歯内療法患者)」において、この問題は顕著です。
なぜ、しっかりと麻酔薬を注入しても痛みが消えないのでしょうか。その背景には、医学用語で「ハイパーアルジェジア(痛覚過敏)」と呼ばれる状態があります。これは、炎症によっていわば「痛みのボリュームノブが最大まで回された」状態であり、通常なら感じない刺激さえも激痛として脳に伝えてしまうのです。
この厄介な現象の正体を分子レベルで解き明かしたのが、ジェイソン・E・ウェルズ博士らによる研究(Wells et al., 2007)です。彼らは、神経細胞にある特定のナトリウムチャネル「Nav1.9」が、麻酔不全の主犯格であることを突き止めました。
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驚きの事実1:痛みがある歯では「痛みの発信源」が3倍に増えている
なぜ、炎症を起こした歯の神経はこれほどまでに過敏なのでしょうか。ウェルズ博士らは、痛みの症状がある歯(symptomatic)と、症状のない健康な歯(asymptomatic)の歯髄(歯の神経)を比較し、Nav1.9チャネルがどれだけ発現しているかを調査しました。
その結果、この研究の「決定的な証拠(スモーキング・ガン)」とも言えるデータが得られました。
- 症状のない歯髄の軸索:9.20%
- 症状のある歯髄の軸索:27.22%
激しい痛みのある歯では、Nav1.9の発現率が約3倍にまで急増していたのです。これを専門用語で「アップレギュレーション」と呼びますが、平たく言えば、炎症に反応した細胞が「痛みのゲート」を大量に増設(製造)してしまった状態です。このゲートの増殖が、神経の興奮性を異常に高め、治療中の激痛を引き起こす基盤となっていました。
驚きの事実2:一般的な麻酔薬(リドカイン)が効きにくい「耐性」の性質
Nav1.9が極めて厄介なのは、その数が増えるだけでなく、一般的な歯科用麻酔薬(リドカインなど)が通用しにくいという性質にあります。
このチャネルは「テトロドトキシン(TTX)耐性」という特徴を持っています。TTXとは、フグが持つ猛毒として知られる神経毒ですが、Nav1.9はこの強力な毒すら寄せ付けません。さらに重要なことに、Nav1.9は**リドカインなどの局所麻酔薬に対しても、他のチャネルに比べて約4倍もブロックされにくい(耐性が高い)**ことが示されています。
さらに、Nav1.9は「持続性電流」という特殊な動きをします。通常のチャネルが瞬時に閉じるのに対し、Nav1.9はゆっくりと、かつ不完全にしか閉じません。これにより神経膜から常に微弱な電流が「漏れ出す(リーク)」状態となり、神経が休まることなく常に活動準備万端の「オン」の状態(脱分極)に維持されます。
このメカニズムについて、論文では次のように述べられています:
“Nav1.9 channels increase neuronal excitability and have low sensitivity to blockade by local anesthetics.” (Nav1.9チャネルはニューロンの興奮性を高め、局所麻酔薬による遮断に対して低い感受性しか持たない。)
近年の研究では、同じTTX耐性チャネルである「Nav1.8」はリドカインに比較的感受性が高い可能性も示唆されており、麻酔が効かない最大の要因は、このNav1.9にあるのではないかと睨まれています。
驚きの事実3:脳に直結する「三叉神経節」の小さな細胞が鍵を握っている
Nav1.9の影響は、歯の内部だけにとどまりません。研究チームは、顔面の感覚を脳へ届ける中継地点である「三叉神経節(Trigeminal Ganglion)」も調査しました。
ここで注目されたのが「SNR(信号対雑音比)」という指標です。これは、背景のノイズに対してNav1.9がどれだけ強く発現しているかという「強度の比率」を表します。調査の結果、三叉神経節にある細胞の中でも、特に**「小型の神経細胞」**においてNav1.9が最も強く発現していることが判明しました。
この相関関係は統計学的にも裏付けられており、3つの検体において細胞サイズとSNRの間に有意な相関(決定係数 r^2 = 0.039, 0.056, 0.137)が認められました。これらの小さな細胞は、CGRP(カルシトニン遺伝子関連ペプチド)やエンケファリンといった「侵害受容マーカー(痛みの指標)」を持つ、いわば痛みのエリート部隊です。
歯の炎症によって増えたNav1.9が、これら脳直結の「痛み専用ニューロン」を武装させることで、麻酔を突き抜けるような強烈な信号が脳へと送り込まれるのです。
驚きの事実4:未来の治療への希望、そして「丁子油」の意外な効果
もし、脳のゲートウェイや歯の神経で暴れているNav1.9をピンポイントで止めることができれば、どうなるでしょうか。この研究は、Nav1.9を標的とした「次世代の麻酔薬」開発の可能性を強く示唆しています。
一方で、臨床的なヒントとして興味深い事実も挙げられています。それは、古くから歯科で鎮痛に使われてきた「オイゲノール(eugenol/丁子油の主成分)」です。ウェルズ博士らは、オイゲノールがリドカインでは遮断しにくいTTX耐性ナトリウム電流を効果的に抑制できるという先行研究(Park et al.)に言及しています。
現代の化学合成された麻酔薬(リドカインやブピバカイン)が苦戦する相手に、伝統的な天然成分が有効かもしれないという事実は、将来の麻酔不全対策に向けた重要な手がかりとなるでしょう。
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結論:歯科治療の未来を切り拓くチャネル研究
これまで、歯科治療で麻酔が効かない事態が起きると、それは「患者さんの気のせい」や「歯科医師の技術的な問題」として片付けられてしまうことも少なくありませんでした。しかし、Wells et al. (2007) の研究は、そこに「Nav1.9」という明確な科学的根拠を提示しました。
炎症によって神経が麻酔に抵抗する「防壁」を築いていることがわかった今、それを打破するための研究は着実に進んでいます。
将来、Nav1.9を特異的にブロックする新しい麻酔薬が実用化されたなら、どれほど激しい痛みがあっても、歯科医院の椅子でリラックスして治療を受けられるようになるでしょう。歯医者さんへの恐怖が過去のものになる未来は、この小さな分子の研究の先に待っているのです。
Reference
Wells, J. E., Bingham, V., Rowland, K. C., & Hatton, J. (2007). Expression of Nav1. 9 channels in human dental pulp and trigeminal ganglion. Journal of endodontics, 33(10), 1172-1176.
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*監修者
東京国際歯科 六本木 院長 宮下 裕志






